着物の歴史
◆明治・大正時代
明治時代になると、政府が絹の生産を大々的に進めたため、日本は絹の一大産地となったそうです。
絹が大量生産されるようになったため、値段も下がり、着物に絹が使われることが再び増えることになりました。
それとともに絹の種類も増え、縮緬や綸子など、新たなものが登場しました。
さらに染色技術も発達し、様々な柄の着物が生まれることとなりました。
着物の柄明治時代初期の着物の柄は、幕末からの質素倹約の流れを引き継いで、地味な色合いでシンプルでした。
派手さがないグレーや茶色の色味で、柄も遠目から見たら分からない程度でした。
中頃になると色合いは少し明るくなり、紫色の着物が登場しました。
柄の面積は裾近くまでしかありませんが、着物の色合いが明るくなったおかげで、遠目から見ても柄が分かるようになりました。後期になるとさらに色合いが明るくなり、青色の着物が登場しました。柄もさらに目立つようになり、面積も広がっていきました。
大正時代に入ると西洋の花をイメージした模様が登場して、色使いも西洋風になりました。
後期になると模様が腰あたりまで入るようになって、柄の種類も多くなりました。
この明治から大正あたり着物の事を一般的にアンティーク着物と言います。
袴の流行明治・大正時代には、女学生のあいだに袴が流行しました。
「行燈袴」と呼ばれる、中に仕切りのないタイプです。
卒業式などに袴を着る女子学生は、少なくないと思います。
女学校では、明治までは、着物を着るのが普通でしたが、大正時代の後期ころから、制服にセーラー服を採用する女学校が増えるようになっていきます。
洋服の登場文明開化により、西洋の文化がどんどん入ってくるようになりました。
それとともに、洋服も登場することになりました。
華族や政府の要人など、西洋人と接する機会が多かった人は、早々に洋服を着るようになったそうです。
洋服を着ていたほうが、近代化をアピールでき、様々な交渉を有利に進めることができたとのこと。
でも一般庶民は、まだまだ多くの人たちが、着物を着たままでした。
洋服がまだまだ高価かったのと、「日本人は着物を着るものだ」と、多くの人が考えていたからなのだそうです。
洋服が出始めた頃は、外出着や礼服として、庶民でも、男性が洋服を着ることはありました。
でもその場合には、ほとんどが貸し衣装で済ませるのが普通だったとのことです。洋装化の流れ男性は、軍隊や警官、鉄道員などの制服が洋服となり、洋装化の流れが着々と進みました。
それに対し、女性は明治時代までは、まだほとんど着物を着ていました。
しかし大正時代に入ると、「女性も着物ではなく、洋服を着よう」という運動が始まったそうです。
現代にふさわしいのは、着物ではなく、洋服だ、というわけですね。さらに関東大震災では、着物を着た女性が亡くなった例が多く見られたのだそうです。
そこで一気に、女性の洋装化が進むことになりました。